長谷川楓(peace)のblog

京都から東下りしたAttention Deficit気味(ぽんこつ)な元京大生 これまでに住んでいた場所を思い出したり、普段の生活について書いたり、創作したものを載せたり。

『四畳半タイムマシンブルース』

今日観てきた。

なぜ、今更。サマーの話なのにウィンターに観に行く。それも久々雪が降る今日(2月14日)に?

一つは、出町座がこの時期に上映していたから。

一つは、もう京都を去るという段になって、観ないわけにはいかない気がしたからだ。

 

ぼくは『サマータイムマシンブルース』が好きだった。2005年当時、ぼくは時間旅行系作品にハマっていて、『BTTF』に始まり『タイムマシン』(2002年の映画)、『いま、会いにゆきます』(小説)等、時間を移動する作品を好んで摂取していた。そのうちの一つが『サマタイ』で、この作品についてはリモコンの辿った壮大な旅路が面白くて、何度も観直して小説版も買って読んだ。

ぼくは『四畳半神話大系』が好きだった。中学生の頃に友人に進められてアニメを観て、その後小説版も高校生の頃に読んだ。特にアニメ版の最終話でのまとめ方がよかった。明石さんの凛とした、高潔な佇まいも好きだった。この作品が京都大学への憧れを強くした。

そして、ぼくは『四畳半神話大系』のOPに登場する寮の入寮面接を受けて、7年間住み続けた。いつの間にか、三回生の「私」を追い越して、『太陽の塔』の五回生の「私」も追い越し、猫ラーメンを食べそこなったまま七年を過ごした「ぼく」が爆誕した。

 

映画『四畳半タイムマシンブルース』が製作されるという話を聞いたときに、ぼくは素直に喜んだ。寮の映像を再度映画の中で使用するという話を聞いて、もう観に行かない訳にはいかない、と思った。けれど、PVを観たときには不安な気持ちになった。『四畳半』のキャラクターたちが登場してはいるが、どうもうまく作られた「二次創作」という感が拭えない(実際監督が異なっているという点で二次創作だともいえる)。湯浅アニメーションの模倣であって本物ではないという感じがPVからも感じられて、その時点であえて避けることにした。

 

そんなこんなで半年以上が経過して、もう寮を出る、京都を離れるという段になって、未練が出てきた。これだけ自分と伴にあった作品たちを継承しているものを、しかも舞台はぼくの住む寮で、それを出町座で上映している。微妙そうだけど観るか!と決心してから1時間後、ぼくは出町座の座席に座っていた。

どうでもいいことだが、出町座は前の座席に人が座っているとその人の頭がフレームインしてしまう設計である。座席を選ぶ際は前に人がいない(かつ後から人が来ない)席を取るべき。それが字幕映画だったときは最悪だ。字幕のあるべき場所に人間の後頭部しか見えず困る。

 

映画が始まって、やはり違和感は拭えなかった。キャラクターたちの性格がかなり『神話体系』と異なっているように感じられる。それもそのはずで、展開やセリフの面ではかなり『サマタイ』に依拠しているからだ。樋口師匠が悪ノリした大学生のように裸踊りを強制する展開は、森美的ホモソーシャル要素という感じもあってある意味親和性があるけれど、アニメで醸成された超人的樋口像とは相容れないところがある。

それぞれのキャラクターが、それぞれ微妙に異なっている。私も、小津も、明石さんも、樋口師匠も、羽貫さんも、城ヶ崎も。

だが、その違いに寧ろ好感を持てた例もある。明石さんは、『神話体系』では言葉少なで近寄りがたく、仏頂面で冷静に相手をあしらうかと思えば、もちぐまんのことになるとふと相好を崩す瞬間があって…というイメージだった。けれど今回は割りとおしゃべりだし、宇宙の因果律が破壊されないようあくせく立ち回る姿はとても人間的で、これは違和感とも言えるけれど、むしろギャップ萌え的な解釈が可能な「違和感」だった。ぼくの明石さん解釈では相手が年下だからといってタメ口で話すようなキャラクターではないけれど、田村とタメ口で会話する明石さんは新鮮で、あ、イイな…と。

もう一つ、この作品の良かった点であり悪かった点だけど、「成就した恋愛ほど語るに値しないものはない」とか言っておきながら、本作めちゃくちゃ明石さんが脈アリ演出すぎて、ほとんど成就を物語っちゃってんだよな、という。『神話体系』はもっとうすーく脈がある感じで、淡いんだけれど、今回はかなりはっきり明石さんの感情の動きを描いている。本作の明石さんの語り過ぎな感じ、正直ぼくは楽しく観ていた。良い二次創作を観ている気分。

そう、これは表裏一体で、本作は「直接的に描く」という嫌いがあった。明石さんにしても私にしても、感情表現がアニメ的記号に寄っていて、チープな感じ。チープな事自体は別にわるくないんだけれど、『四畳半』ってそういう感じだったか?という違和感はある。森見登美彦的な、青年らしい精神の未熟さを含んだ内容を、持って回った格調高い文章で表現するあの感じ。あとは、ドラッギーな湯浅アニメーション。その成分がもっとあってもよかったはずなんだけど、全体的にキャラクターたちのセリフや感情表現がチープで凡俗なものになっていた。それが「コレじゃない」感につながっていたんじゃないかと思う。前にFate/Zeroでの虚淵ギルガメッシュを観た後に奈須ギルガメッシュを観て、虚淵と奈須の語彙力の格差を感じたあの時みたいなギャップ。

 

また、『サマタイ』からの変更点の一つに、田村は偽名という設定になっていたことがある。そりゃそうか。サマタイと違って主人公の名前が明かされていないので、サマタイのラストのやり取りが不可能だもんな。自分の名字を「田村」に合わせに行く、つまり「決定論的運命論的な世界に自分が合わせに行く」という、作品のテーマを端的に表した面白いオチは、今回踏襲されなかった。あのオチ面白かったよな、と改めて認識した。

 

まとめると、これじゃない感はありつつも、二次創作として受け止めれば、新鮮な明石さんも観られて、悪くない作品だったと思います。

出町座の前に停めてたチャリに置きっぱにした傘が盗まれてたこと以外は、いい日でしたね、今日は。