長谷川楓(peace)のblog

京都から東下りしたAttention Deficit気味(ぽんこつ)な元京大生 これまでに住んでいた場所を思い出したり、普段の生活について書いたり、創作したものを載せたり。

『すずめの戸締まり』を観てきた感想

新海誠の新作『すずめの戸締まり』を友人と観てきました。以下、その感想。

 

■総評

いろいろ腑に落ちず、モヤ~とした映画。表現されているあれこれには丁寧さや親切さに欠けて、よくわからないままで映画が終わってしまった。

観終わった後、特典でもらった「新海誠本」を読んだ。この作品は三つの柱、「すずめの成長」「ラブストーリー」「戸締まりの物語」があるらしい。しかしどれも消化不良だと思う。この映画、表現したいことが多すぎたんじゃないだろうか。そして結果的に時間が足りなくなり、表現したいこと一つ一つの描写・説明も不足した。そんな印象。

劇中では非日常ばかりが描かれて、普段のすずめや草太の言動、友人関係など、日常的な場面が描かれないために、彼ら主人公級のキャラクターの人物像がうまく理解できないまま物語が進行してしまった感がある。

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■震災の描かれ方について

公式HPには、以下のような注意喚起文が掲載されている。

「本作には、地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーンがございます。」

しかし、この作品内には「大震災」が、僕たちの現実世界で起こった東日本大震災と同様(というかほぼそのまま。場所は東北で、すずめの日記の日付は3月11日からすずめ自身の手で黒く塗りつぶされている。)に存在しており、それが主人公の経験した災害として描写される。この意味で、もっと具体的な注意喚起文が必要だったと思う。フィクションの震災としてではなく、東日本大震災が登場してくることを、もっと明確に描くべきだと思う。「『東日本大震災が登場する』と書くと、観客が敬遠して興行が伸びないかもしれないかもしれないから、少しオブラートに包んでおこう」みたいな製作陣の都合優先のいやなやりとりがあったんじゃないかと邪推してしまう。

 

ともかく、この作品には「東日本大震災」へのほぼ直接的な言及がある(①)。そして、ほかにもフィクションとして「いまにも起こりそうな震災(そしてそれに脅かされる日常)」という、将来の災害についての言及もある(②)。新海さんとしては、どちらも描きたかったことなんだろう。けれど、どちらにしても出力結果はなんだか腑に落ちない。

①について。震災孤児であったすずめの描写は、東日本大震災への言及に意味を与えるものになりそうだけれど、実際のところは曖昧でとってつけた感がある。ラストにすずめが過去の自分に言い聞かせるようにして自己肯定をする場面があるが、そこにいたるまでの、「すずめが抱えている問題」みたいなものがはっきり描かれていないので、観ている側としては「何が解決したの?」という感じ。(実際数日経った今もよくわかってない)

加えて、養母の環(たまき)との関係について。これも、震災孤児が抱えうる問題として、作品に社会的な意味を与える題材だと思う。しかし環に「すずめを引き取ったせいで若い時間を失ったという後悔」を暴露させたのはあまりに急だったし、しかもその原因は、すずめが「戸締まり作業」に巻き込まれた結果、突発的に発生した不和が原因であるという、内容の重たさの割にやや必然性に欠ける暴露だった。そして、その重たい暴露のために二人の間に入った亀裂は、環の「すずめに対する感情は、それだけではない」という、やや消極的ともいえる一言でフワッと解決したことになってしまう。。。すずめ自身も言っていたように「好きで養子になったわけでもない」のに、災害という抗いようのない出来事によって、不本意にも養母に世話になってしまい、そしてその大切な時間を奪ってしまった、という罪悪感を掻き立てる暴露。これ、育てられる子供としてはあまりに重たい発言だとおもうのだけれど、そんな軽い感じで解決できることだろうか?すずめの(あるいは実際同じ状況に置かれた孤児)にとっては、かなりショックの大きい発言だろうし、本来もっと丁寧に問題と解決を描くべき題材じゃないだろうか…???

といったような点で、①の東日本大震災については描写不足だと思う。こんな状態で、「東日本大震災をテーマにしている!」という事だけをもって評価するなんて、できないと思う。

 

②について。劇場特典「新海誠本」には、災害を通して「日常」の価値を知る、というようなことが趣旨として書かれていたが、今作には、そのための十分な時間がなかったように感じる。物語の軸としてすずめと草太の旅があるために、訪れるそれぞれの地での人々の生活に対する描写が希薄になってしまって、結果として「日常」を感じられないまま震災がそれを脅かす、という展開になってしまっていた。「災害を通して日常の価値を知る」という意味では、『君の名は。』のほうが、三葉の生活やその友人、街の風景などが丁寧に描かれた分だけ、災害でそれらが脅かされ、そして一度は実際に失われたという事の重大さ、つまり「日常の価値の大きさ」が伝わってきたように感じられる。

 

■ラブストーリーについて

劇中で全然描き切れてなくて、ぶっちゃけ要らない要素だった気がする。

「草太さんのいない世界なんて…!」みたいなことをすずめが言い出した時は全く突然だったので戸惑いしかなかった。出会いのシーンの「きれい…」という一言も相俟って、すずめがただの面食いみたいになってるやん。

 

さて、これまでの新海作品から、新海誠の性癖の一つに「年の差(女性が年上)」があるのをひしひしと感じるんだけど、今作でも顕現してましたね。すずめと草太は、男性が年上なので、多分これではなく。

ハイそうです、環と芹沢ですね。

すずめ、ダイジン、環、そして芹沢の4名で東北までドライブを始めたあたりから、環が助手席に座っててアレ?とはなっていたんですよね。芹沢=”すずめをたぶらかすチャラ男”と思っている環が、二人の間に挟まろうと、あえて助手席に座ったというのも理解できる。そして脚本側の都合で、環に過去話をさせるために芹沢の隣に置いたんだとも思いつつも。しかし結果として微妙に環と芹沢の距離が縮まっていくんですよね。その後すずめと環の口論のあと、環が芹沢に泣きつく下りは、やや性癖を滑り込ませた感じがあります。(口論シーンで観客席が暗くなりすぎないようにバランスをとるための下り、というこれまた脚本上の都合というのもありそうですが。)

このあと、環の会社の部下で環に思いを寄せている風である岡部が、環と連絡を取り合うシーンで、環がチャラ男(芹沢)と一緒にいることを知ってやきもきしているシーンがありましたが、NTR展開的にも見えて、いろいろと妄想がはかどりそうな描写をちりばめるなァ~~という気持ち。

 

■戸締まりについて

これ、難しかったなぁ…。語りきられてない設定を匂わせる描写みたいなのもチラホラあって、考察するのが好きな人には、民俗学的な知識と絡めて楽しく観られる要素かもしれない。

常世」という、人間の社会生活がある表の世界に対する裏の世界みたいなものがある。そちらで蠢いている「ミミズ」が、「後ろ戸」を通して表に出てくると、表で災害が発生する。草太が受け継いでいる「閉じ師」という仕事は、日本全国を行脚する中で各地にあるこの後ろ戸を閉めてまわり、災害を未然に防ぐものだ、という、ざっくりとそういう設定。

本来ミミズは要石(かなめいし)によって封印されていて、後ろ戸を超えて出ては来ないはずなんだけど、すずめが要石をうっかり取り外してしまったために、後ろ戸が開けばミミズが出てきてしまう状況に。「ダイジン」(取り外された要石が猫に変化したもの?或いはもともと猫だったものが要石になっていた?)が、いらんこと後ろ戸を開けて回るので、すずめと草太はダイジンを追いながら戸締まりしていく、というストーリー。

まぁ、ここまでは全然理解できる内容なんだけど、これ以外にチラホラ出てくる要素が難しい。例えば「ダイジン」と「サダイジン」。ダイジンはなんで後ろ戸をあけて回っていたのか?本来要石として、ミミズをでてこさせないようにする役回りだったのに?サダイジンは草太のおじいさんと親しげに話しているカットがある。何物?そしてなぜ環にのりうつった?(上記の暴露をさせたのもサダイジンの仕業感がある)

 

戸締まり作業は、やや間延びした感がある。同じ作業も5回もしていると、単純に飽きちゃうよね。あと連続5回も地震警報のアラームを聞かされるのはしんどい。

特に途中の四国と神戸の戸締まり2回は、どちらかを省いて1回でもよかったんじゃないか?

 

■割とドライな展開について

草太自身が要石になりミミズを封印しなければならないという事が明らかになり、すずめが「多くの人の命と草太の将来とを天秤にかける」というトロッコ問題に悩まされるシーンがある。

悩んだ挙句、草太を封印に使うことを選択する。まぁ…、そうするしかないか…と僕は思ったが、そのあとすずめは、なんとか草太を救い出そうと、草太のおじいさんのもとへ行くことを決意する。その際に、しっかりと後ろ戸を戸締まりする。「え~!あけっぱにしとけば後でそこから常世に行けるかもしれないのに、戸締まりはするのか、冷静というか、ドライだな~」と思ったのは僕だけだろうか。

そのあと、なんやかんやで、常世に到達するすずめたち。やはり草太は要石としてそこにいる。草太をひっこぬいたあとは、自分自身が要石になる!という事を言っていたが、しかしついさきほど、ダイジンがいい感じ?のタイミングで弱って要石に戻っていたので、これを刺す。「え~!ダイジンと仲良くなった感じだったのに、封印に使っちゃうの!?しかも草太が要石になったところからして、ダイジンももとは人間としての生活があった可能性もあるよね…。ダイジンを封印に使っても別にすずめ的には問題ないのね、ダイジンはいいんかい。」と思ったのは僕だけだろうか。

妙にドライなところもあって、やっぱりすずめというキャラクターの人間性が見えにくくなった気がした。

 

 

■新海作品の美麗な画面について

今まで、『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『君の名は。』『天気の子』を観てきたけれど、それらの圧倒的に美しい画面を期待していたら、本作は言うほど印象に残らなかった。一緒に見に行った友人と話していたら新海さんの「都市を描く才能」という話になって、得心がいった。確かに、今作は舞台のほとんどが都市じゃない…!廃墟と田舎と、わずかに都市、という感じ。ぼくが単にぼーっとしていただけかもしれないが、画面映えという点でも印象が薄かったな…。ぼくの通っている大学の講義で、「新海作品をはじめ、近年流行の写真作品などは、自分たちが見慣れているものを別のフィルターを通して美しく映すことで評価につながっている」と言っている教員がいたけれど、そういうことなのかもしれない。もしかしたらもっと廃墟や田舎を見慣れている人たちからすると、今作はまた違った感想になるかも。