長谷川楓(peace)のblog

京都から東下り。これまでに住んでいた場所を思い出したり、普段の生活について書いたり、創作したものを載せたり。

最近行った喫茶店の記憶(2021年)

2021年ごろに書いた、京都のカフェの記録を発掘した。
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①ライミン(吉田寮から東大路通を少し南下したところ) 
 白を基調とするさわやかな店内にジャズが掛けられている。手作りの照明は、『ウルトラマン』のブルトンを縦に細長くしたような面白い形をしている。「灰皿はお使いになりますか?」と聞かれる。数少ない喫煙可能な喫茶店の一つ。そういえば「カフェコレクション」も禁煙になったんだっけか。
 自家製ビーフカレーとホットコーヒーのセットをよく頼む。八〇〇円。カレー単品で六五〇円なので、セットの珈琲は一五〇円になるということか。やさしい値段設定。
 コーヒーは、この前行ったときはコーヒーメーカーで作っていたけど、店主がドリップしているときもあったと思う。ちょうど僕の好みに近い濃さ。冷めてもおいしい。 
 Google Mapsのレビューによると、四十年前からあるそうだが、店主は一体何歳なのだろう。
 ほかの客と店主が話している様子から、店主は気さくな方のようだが、僕はまだ話したことはない。ライミンに限らないけど、客はどうやって店の人と仲良くなるんだろうな、コツがあったら知りたい。
 

②小川珈琲今出川店(今出川通南側農学部正門前)
 小川珈琲の銘柄はスーパーなどでもよく見かけるが、こんなに京大近くにその店があったとは最近までしらなかった。チェーンだが、店員はおじいちゃんとおばあちゃんで、それなりの歴史がありそう。アットホームな雰囲気。昨日モーニング食べに行ったら店員のおばあちゃんが常連さんの横に腰かけて話してた。そういうところは「キャラバン」に似ているかな。
 バタートーストとオムレツ、サラダ、そして珈琲の組み合わせで五〇〇円。
 一口目の珈琲は僕にとってはわずかに苦く感じられたけど、バタートーストと合わせると、その濃厚さが珈琲の苦みと相まってキャラメルみたいな香りと美味さを感じさせた。キャラメルが久しぶりに食べたくなって帰りに買って帰った。

③御多福珈琲(四条寺町下ル)
 別の用事で四条寺町の交差点を通ると、小さな看板と地下への階段が目に入った。あ、御多福珈琲(おたふくこーひー)だ。四条寺町なんぞめったなことでは来ないが、そのたびに御多福珈琲を見つけ、いつか入りたいな、と思ってきた。しかし卒業まで一年半を切った(予定)し、今入らねば永遠に入らない気がする。よし、今日こそは。
 階段を降りて左手に、こじんまりした空間がくっついている。レトロな内装と調度品。先ほど吸われていたのであろうタバコの残り香が漂っている。ここもまた、ライミンと同様喫煙可能なお店だ。僕は副流煙の香りは嫌いじゃない。僕が行ったときは特に、あまり嗅いだことのない珍しいタバコの香りがしていて、雰囲気がよかった。
 一人で初めての喫茶店に行くと、どこに座ればいいのか勝手がわからない。といって店内をウロウロするのも格好がつかない。一人でテーブル席をとるのもはばかられる。そういう訳で、一直線に奥へ、カウンターの一番隅っこに陣取ることが多い。この店の隅っこは、店主の死角であったようで、店主がカウンター内で珈琲を入れる様子をよくよく観察できた。
 カウンター内部は狭い。人一人が立てる程しかない。その狭い空間の中でも、店主はダイナミックに珈琲を淹れる。水いっぱいのアルマイトのやかん、これを火にかけて沸騰させ、別の小さなポットに大胆に注ぎ込む。どぼぼとこぼれても気にしない。このポットの湯を、腰を低くした・パントマイム的なキレの良い・独特の動きで、ドリッパーの中に注ぐ。湯を含んだ豆がカップケーキみたく、うまそうにモコモコモコと膨らんだ。そうして「当店自慢のブレンドコーヒー」(四四〇円)が目の前に置かれる。
 珈琲の後味はすっきりとして純度の高さのようなものを感じる。「暴力的でガサツな珈琲」というものがあるとしたらこちらはその対極にある。ほかの食事メニューとも喧嘩せず同居できる、そういう品の良さだと思う。

膨大な記憶

 

雪の降った日

 京大吉田寮にいた。

 2月のあの季節。
 朝、なんだかいつもより外が明るくて、部屋を出てみると、一面に雪が積もっている。
雪は、日光を反射してやたらに真っ白い。普段は薄暗くてよく見えない、廊下の天井の隅っこも照らし出されて、クモの巣がはっきりと見える。
 あの季節。

 多くの大学生が、これから春休みだぜ何をしようかと浮足立つ一方で、
 僕は、触った雪ですっかり冷えた手を炬燵で温めながら、「入寮パンフレット」のことを考えていた。
 2月末の京大受験日に多くの受験生に向けて配布する、寮の存在やその内実を知ってもらうための一冊の本が「入寮パンフレット」だ。
 (もっとも、今は「紹介パンフレット」と呼び名が変わっている。そこに至る経緯はさておき、ここでは「パンフ」と呼ぶ。)

 パンフというと、堅めな紙を三つ折りや観音折りにしたものを想像するかもしれないが、
 僕らの作っていたパンフは、とにかく分厚く、200ページ以上になることもある。
 内容は、寮生活のあれこれはもちろん、およそ寮とは関係のない「雑文」も含めて、ごった煮である。
 しかもその製本は寮生たちによる人力である。B4用紙を重ねて重ねて重ねて・・・、重ねまくって分厚くなった紙の束を、ぐにゃりと二つ折りにして、これを「パンフ」といっている。
 二つ折りにするときに、ビールジョッキでゴリゴリと折り目を付けていた。こういえば、束の厚みが伝わるかな。

 あまりに分厚くて、受験生が受け取るのを躊躇っているかもしれないと思い、僕の代では、巻三つ折りのカッコいいパンフも印刷所に頼んで作ってもらったこともあった。
 しかしその年も、分厚い自家製パンフを廃止することはしなかった。分厚いのと薄っぺらいのとを同時に配った。
 いくら疎まれていたとしても、分厚いパンフは、不可欠だと思っていた。

 なぜ分厚いパンフなのか。
 ほかの寮生はどう思っているか知らないが、少なくとも僕個人としては、「この厚みこそが、吉田寮だ」という思いがあった。
 吉田寮という場は、寮生はもちろん、寮生の友達も、寮に住んでいない学生も、地域の人も、ふらっと来た旅人も、誰も彼もいろんな人が集まって、交流していた。
 いろいろな属性の人が、いろいろなモノや人に偶発的に出会う。そうした中で、表現したいものが積もってくる。
 それは、楽しさや幸せについてだったりもするし、苛立ちや悲しさであることもあるだろうけれど。
 そして、必ずしも文章というメディア形式をとるわけでもないだろうけど。

 とにかく、いろいろな人が、それぞれの感性に基づいて、何かを感じている。
 そして、文章としてその全てが表現されるとしたら、何テラにも何ペタにも、何エクサにでもなるだろう。とにかく膨大な情報量になるはずだ。
 偶然、2月のこの季節に、文章を書く条件が整った人たちが出力した情報が、200ページに何とか収まっただけの話だ。
 なので、僕としては200ページでも、厚すぎるとは思わない。(まぁ、ビールジョッキでゴリゴリするのも中々骨が折れるけど)
 
 そういうことを、僕は入寮した時にも卒寮する時にも、考えていたらしい。
 卒寮する時に書いた文章が、下記です。

 

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 2017年、入寮二年目で入寮パンフレット作成委員会の委員長だったぼくは、パンフの1ページ目に「吉田寮は文章で表現しきれないクソデカ空間」的なことを書いた。パンフの文章を読んでも把握しきれない空間なので、実際に見に来てね、みたいなことも書いてた。
 入寮から7年を経た今。「吉田寮」というものが尚更わからなくなった。入寮前の頃は、つかみどころがなくてよくわからない場所だったが、その中で長年過ごすうちに「つかみどころが多すぎて」、よくわからない場所になった。
 入ってすぐの頃は、ネットで吉田寮を指して「吉田寮はカオス」みたいな感想見ると、「浅いわ~」みたいなマウントを心のなかでとっていたのだけど、一周回ってやっぱりカオスだったわ。吉田寮にまつわる記憶がカオスになってるもん。

 吉田寮のそこらじゅうに記憶が転がっている。記憶は風景と同化してしまって、部屋の隅に溜まった埃みたいに目立たない。けれど確実に積もっていく。日常の中でただ通り過ぎてしまうだけの場所も、しかしよくよく見つめてみると7年の間に起こった出来事が何層にもなって折り込まれている。建物それ自体が膨大な記憶装置になっている。もしもこの建物がなくなってしまう時が来たら、ぼくは学生生活の大部分の記憶にアクセスする方法を失うのだろう。(そういえば、寮の建物を3Dスキャンする話はどうなったんだっけ?)

 様々な記憶がある。たとえば今通っている廊下は5,6年前に床板の補修作業をしていた。通り過ぎて右手側を見ると2階に続く階段が見える。今はいないけどこのあたりにモジャモジャの黒猫(でぶ太)がよくいた。左手の中庭では、買ったけど身体が受け付けなかったタバコ60本程を同時に燃やして空に返した。階段を上がると、二階の廊下からも中庭が見える。2018年の台風の時には木々がぐわんぐわん煽られて、最終的に何本か倒れたんだった。二階にはインド古典哲学専攻の学生が住んでいて、彼と中庭の梅を取って梅干しをつくったこともあった…。これ以上は書かないけど、とにかく記憶がたくさんある、ありすぎる。(吉田寮というものがわからなくなった原因も多分ここにある。)何度も何度も同じ場所に記憶が打ち込まれていく。しかも、打ち込んでいったのは自分だけでないところが、恐ろしい。ぼく以外の、吉田寮が開舎して百と十年の間に吉田寮に関わった/そしてこれから関わるすべての人にとって、吉田寮は記憶装置になっている。もはや一つの場所が背負っていい記憶の量ではない。あまりに高密度なので、ブラックホールのような何かが出来てもおかしくはない。

 ぼくが長い時間を過ごしてきた中寮のある部屋記憶の一例。
 2017年12月19日、ぼくが講義を終えて、たまり部屋に戻ってくると、いつもと変わらずゴロゴロしている猫の様子とは裏腹に、人間たちの雰囲気が違った。「吉田寮生の安全確保についての基本方針」という声明を、大学当局が発表したことを受けて、みんな浮足立っていた。要は大学側が寮生追い出しに本腰を入れる、という意味だった。ぼくは「うお~、まじか」と興奮していた。じつはぼくが入寮した2016年時点でも、大学は入寮募集停止要請を一方的に通達していたので、こういう日が来ることはわかっていた気もする。「まさか自分の在学中に来るとはね。すげ~、歴史的瞬間じゃん」という、興奮があった。しかしその日は、興奮したあとすっかり気落ちして、こたつで横になりながら「寮がなくなったらどうなるんだろう」と考えて悲しい気持ちになった。一人暮らしの寂しさに耐えられる自信は、少なくとも当時はなかった。その時は「絶対に笑ってはいけない柔道代表発表記者会見」を観てなんとかやり過ごした。ケロケロキュー。

 それまでただ楽しいだけの寮生活を謳歌していたのに、面倒な時代に入寮しちゃったな、という素朴な苛立ちがあった。余計なことをしやがって、大学め。寮を存続させるためには、やらなければいけないことがある。正直、何も仕事をしないで寮の楽しい部分だけ味わって卒業まで漕ぎつけられるなら、それで良いとも思っていたし、今でもそう考える傾向があるのは間違いない。けれど、なんだかんだでそれなりに、寮存続のための活動に関わってきた。同室の人間たちと(もちろんそれ以外の人達の協力もありきで)、寮の建物や自治活動の価値について理解を深めるセミナーを開催したり、市民運動につなげる狙いでシンポジウムを運営したり、メディア取材を引き受けたりしたこともあった。それらはたしかに面倒もあったけれど、唯一無二の経験だったし、これもまた寮生活の楽しい一場面だった。
 
 吉田寮では、自分一人ではやろうとも思わない活動に巻き込まれていくことがよくある。入寮当初はそのことを意志薄弱の証のように感じて自己嫌悪するときもあったけれど、振り返ってみれば、正直自分の意志か他人の意志かというのはあまり意味がなかった。それらは区別が難しい。人と生活拠点を伴にして、長く時間を共有する以上、自分の意思決定の根拠に他人の存在が入り込んでくるのは避けがたい。それに物事のきっかけなんてすぐ忘れる。だから、自分の意志かどうかいちいち気にしないで、為すがまま、為されるがままにして、その瞬間の体験を楽しめるかどうかに気を向けたほうが、殊、人との距離が近いこの寮にあっては自然な気がする。

 思い出話を書いているうちに話が逸れた。


 これから吉田寮に入るかどうか悩んでいる受験生に向けて、「吉田寮はよくわからない場所です」というのも何だけれど。実際よくわからない場所です。偶発的に様々な出来事が起こり、人に振り回されたり人を振り回したりしていくうちに日々が過ぎていって、思い出がカオスになっていくかもしれない。曖昧でやっぱりよくわからない表現になったけれど…、なんかそういう感じの場所です。

空に返した煙草
青梅。それを漬けた後天日干しに。

ゆで卵の話(創作)

 大学からの帰り道にあるスーパー。今日は木曜日で卵が安くなっている。適当な数の卵パックをかごに入れて、レジに並ぶ。美しい横顔の店員はかごの卵1パックを取り出してバーコードを読み、パックの総数を数えて額を三十倍にした。「お会計三十点で4440円です」柳眉を若干ひそめて言われた。

 僕のことは店員たちの間で噂になるだろう。エッグマンとか言われるんだ、多分。

 

 スーパーの近くにある木造アパート。二階に「投長」の部屋がある。卵パックの詰まったカバンと両手のレジ袋はさすがに重たくて、階段を上るのが辛かった。

 玄関の扉を開ければ暖気が迎え入れてくれた。人間三人+猫一匹は炬燵から出ずにぬくぬくしていた。僕は炬燵の余った一辺に身体を滑り込ませた。膝が誰かの足にぶつかった。

「投長、買ってきたっすよ。これレシート」

「おお、サンキューな。ほら、釣りは駄賃だ」

と、投長は千円札五枚をくれた。

「あざっす」

 

「じゃ、さっそくはじめよ~ぜ!」

と威勢のよい特攻投長。彼女はダイソーの「たまごのプッチン穴あけ器」を四つ取り出して、みんなに渡した。パックの封を切り、一つ一つの卵に直径一ミリメートルもないくらいの穴をあける。結構難しい。始めは二、三個割ってしまうが、五個目くらいからコツが分かってきた。特攻投長は笑顔で「センスあるねぇ!キミぃ~」とほめてくれた。特攻投長はかわいい。

副投長は手が震えるせいで一パック分の十個全部を割ったところでやっと罷免された。僕の手元をのぞき込んで、「ええ筋しとるのうぅ」と恨めしそうに僕の顔と卵を交互に見てくる。投長は四人の中では最も精確で、最も速い。黙々と作業をこなす。特攻投長はいつのまにか一つの卵を穴だらけにして遊んでいた。「卵を穴だけにしたらどうなるんだろうね~」僕は一瞬、穴だけになった卵のことを考えたが、頭はすぐさま「特攻投長かわいい」でいっぱいになった。

 

 もうすぐ穴あけ作業が終わるというころ、副投長は靴をどけた玄関の床に赤茶けた鋳物コンロを置き、ガスボンベとステンレスの厚手の鍋のセッティングを始めていた。レンタル業者から借りてきたらしい。僕が横に座って見ていると、おもむろに副投長が言う。

「厚手のほうが熱が均一に加わってええんじゃ」

「そうなんすね」

「そして、温める前の、水の時点から卵をいれるんじゃ」

「はい」

 僕はパックから取り出した卵を丁寧に水の中に入れ始めた。落としてヒビが入らないように気を付ける。火を付けた。沸騰し始めてから八分ほどまつと、よい半熟卵が出来上がるらしい。沸騰するまでの間は、黄身が中で偏らないように、卵を転がす作業をする。

鍋の中で転がっている大量の卵を見て、すこしおぞましく感じた。僕は親鶏の気持ちを考えようとした。無精卵だから許してくれるかな。

 

 ピピピピ。

 八分経過を知らせるタイマーが鳴り、僕は火を止めた。シンクに置いたザルに向かって、鍋の中身をぶちまける。シンクがボコンと鳴り、猫が驚いてこちらを見た。いくつかのザルに分けて殻を剥く作業をする。あけた穴のおかげで、不器用な副投長でも簡単に殻が剥ける。

 

 雪が深々と降るしずかな夜に、四人がこたつを囲んでゆで卵の殻を剥いていた。猫はこたつ机の真ん中で丸くなり、上目遣いで僕らの手元を見ていた。



 作業を終えて僕らはゆで卵をパックに詰め直したあと、各々のリュックサックに入れた。

「いくぞ」

 投長がそういうと、僕らは立ち上って外へ出た。作業をしているうちに日は暮れ雪が降りつもり、空は真っ黒、地面は真っ白になっていた。アパートの敷地を出ると、街灯に照らされた降雪と積雪が三角錐を作って等間隔に並んでいる。

 

 僕らは十五分ほど歩いて、寺の境内にある墓地に来ていた。墓石の並ぶ道の突き当りに、投長の先祖代々の墓がある。今日命日を迎える投長の父も、ここで眠っているらしい。

 だれもやりたがらないので、僕は提灯の役をした。スマホのライトで、石碑が暗闇の中で浮かび上がった。投長は五メートルばかり離れて、カバンを置いた。他の二人も、墓石から少し離れて見守っている。

 投長はワインドアップで振りかぶり、右腕を振り回した。高校時代は軟式野球のピッチャーだったらしい。「現役時に比べたら球速は落ちたが、百二十キロは出せる」120km/hで投げ出されたゆで卵は、闇夜の中で白い直線を描いて石碑に激突した。半熟の黄身が石にへばりついた。砕けた白身は細かい粒になって、空中でキラキラとはじけ、四散した。そうして、投長は何度も石碑にめがけて全力投球を行った。投長が投げるときに出す「ふんッ」という声と、ゆで卵のはじける「パァンッ」という音だけが、交互に繰り返される。僕は、道中に投長が話した言葉を思い出していた。「父はゆで卵が好きだった」「墓前に備えるだけじゃ、カラスに食われておしまいだ」「腹いっぱい食わせてやりたい」投長の横で見ていた二人も、楽しくなってきたのか一緒にゆで卵を投げ始めた。副投長は不器用なので他の墓にもぶつけていた。僕は、ゆで卵まみれになっていく自分と、訳も分からないまま好きでもないゆで卵を食わされている故人が不憫だった。

 

 僕らは、次の目的地を目指して歩いていた。卵でべとべとの僕は正直気乗りしなかったが、他の三人はやる気になっていたのでついていくしかなかった。僕らは車庫の前に来ていた。ここは前に副投長が勤めていたタクシー会社の車庫らしい。手の震えが原因で辞めさせられたという。

 副投長は事務所のほうを覗いて誰もいないことを確認すると、複製していた鍵を使って事務所内に入っていった。僕らは道の角に隠れて見守っていた。少しすると、副投長は帰ってきた。事務所の冷蔵庫の卵を全部ゆで卵に入れ替えたらしい。「明日仰天する奴らの顔を思えばたまらんな、愉快じゃ」建造物侵入罪相当のことをする割に復讐のしかたがみみっちくて、僕らは笑った。

 「本当にそれだけでいいの?」少し物足りなさそうに特攻投長が言う。「そうじゃなぁ」副投長は、ゆで卵を車庫の車に向かって投げた。ぶにんっとゆで卵は跳ね返って落ち、車には何の汚れもつかなかった。ハハハ、と乾いた笑いをした後、副投長は少し強く投げつけた。ボンネットにあたったゆで卵は、そのまま車の上を跳ねて向こう側に落ちた。球速を上げると、うまく当たらない。副投長は「許さん」「許さん」と投げ続ける。そこで投長が120km/hでゆで卵を発射すると、しっかり黄身がはじけて車にへばりついた。同時にセキュリティアラームが鳴りだして、僕らは慌てて荷物をまとめ始めた。



「全員、別々に散らばるんだ。適宜連絡をくれ。以上」

 投長の合図で、僕らは別々に逃げ出した。雪の中を走りながら、僕はなんでこんなことをしているんだろうと思った。ゆで卵を買ってきた。茹でた。剥いた。そして走って逃げている。なぜ?

 

 僕は何の理由があってこんなことをしているのだろう。僕だってムカついているやつの一人や二人はいる。けれど、誰かにゆで卵をぶつけられるほど、僕は激情も愛情も持ち合わせていなかった。

 

 走るのに疲れて、誰もいない公園のベンチに座った。いっときすると、特攻投長も息を切らして僕の隣にやってきた。走るために髪を結んだ特攻投長はやはりかわいかった。

「面白かったね~」

 面白かったかといわれるとよくわからない。適当に「えぇ」と相槌を打った。

 僕は唐突に、特攻投長は卵をぶつけたい相手はいるのか、聞きたくなった。それを口にしようと特攻投長のほうに目をやると、特攻投長もこちらを見ていて、「目を閉じて」と言われた。何も考えずに素直に従うと、唇に何かやわらかいものが触れた。ウワ~と思いながら唇を動かすと、やわらかいものが口の中に入ってきて、僕の口の中を占拠した。ゆで卵だった。目を開くと、ニコニコした特攻投長が目の前にいて、「噛んでみて」という。ちくしょう、注文の多い人だなと思いながら、僕はゆっくりゆで卵を噛みつぶす。卵のどこかがはじけて、中の黄身がとろけて出てきた。うまい。僕の右手には卵が握らされていた。それを指の腹でゆっくりと押してみる。むにっとした感触だけではなく、卵が形を変えて反発する状態と卵が破壊された状態を同時に想像することができた。いつの間にか卵ははじけて、僕の右手を黄色く濡らしていた。そして僕の額からも生暖かいどろりとした黄身が滴り落ちて、涙みたいに頬と顎を伝って落ちた。特攻投長が僕の額にゆで卵を押し付けていた。相変わらず彼女は笑顔だった。僕も、気づけば彼女の口にゆで卵を突っ込んでいた。そして彼女の体のいたるところににゆで卵を押し付けてぐちゃぐちゃにした。僕らは体中に黄と白を塗りたくった後、ゆで卵で雪合戦をした。雪合戦に飽きたら、僕らはゆで卵を建物の壁にぶっつけて遊んだ。別に壁の下に埋まっている誰かに食わせるわけでもなく、壁を作った施工業者を呪うでもなく、ただ意味もなく、壁にぶっつけた。形を持った卵は、無為にぐちゃぐちゃになって四方八方にちらばった。ただただ愉快だった。降り積もった雪の上に、黄色がはじけて落ちるのが、愉快だった。

 

 そうしてひとしきり遊んだ後、僕らは帰り道に牛丼屋に入った。運ばれてきた温玉付牛丼の温玉は卵の形をしていて、それを見ていたら可笑しくてたまらなくなり、噴き出して二人で笑った。

 

Google マイマップの活用しよかな

とおもっている。

具体的には、GoogleマイマップのHTML埋め込みを使うのだ。

 

前に京都の美味しいご飯屋さんをマイマップでまとめている人を見て、自分もやりたくなった。

思い出も振り返るのにちょうどいいよね。場所法的な感じで、思い出す手掛かりにもなりそう。

 

 

 

『四畳半タイムマシンブルース』

今日観てきた。

なぜ、今更。サマーの話なのにウィンターに観に行く。それも久々雪が降る今日(2月14日)に?

一つは、出町座がこの時期に上映していたから。

一つは、もう京都を去るという段になって、観ないわけにはいかない気がしたからだ。

 

ぼくは『サマータイムマシンブルース』が好きだった。2005年当時、ぼくは時間旅行系作品にハマっていて、『BTTF』に始まり『タイムマシン』(2002年の映画)、『いま、会いにゆきます』(小説)等、時間を移動する作品を好んで摂取していた。そのうちの一つが『サマタイ』で、この作品についてはリモコンの辿った壮大な旅路が面白くて、何度も観直して小説版も買って読んだ。

ぼくは『四畳半神話大系』が好きだった。中学生の頃に友人に進められてアニメを観て、その後小説版も高校生の頃に読んだ。特にアニメ版の最終話でのまとめ方がよかった。明石さんの凛とした、高潔な佇まいも好きだった。この作品が京都大学への憧れを強くした。

そして、ぼくは『四畳半神話大系』のOPに登場する寮の入寮面接を受けて、7年間住み続けた。いつの間にか、三回生の「私」を追い越して、『太陽の塔』の五回生の「私」も追い越し、猫ラーメンを食べそこなったまま七年を過ごした「ぼく」が爆誕した。

 

映画『四畳半タイムマシンブルース』が製作されるという話を聞いたときに、ぼくは素直に喜んだ。寮の映像を再度映画の中で使用するという話を聞いて、もう観に行かない訳にはいかない、と思った。けれど、PVを観たときには不安な気持ちになった。『四畳半』のキャラクターたちが登場してはいるが、どうもうまく作られた「二次創作」という感が拭えない(実際監督が異なっているという点で二次創作だともいえる)。湯浅アニメーションの模倣であって本物ではないという感じがPVからも感じられて、その時点であえて避けることにした。

 

そんなこんなで半年以上が経過して、もう寮を出る、京都を離れるという段になって、未練が出てきた。これだけ自分と伴にあった作品たちを継承しているものを、しかも舞台はぼくの住む寮で、それを出町座で上映している。微妙そうだけど観るか!と決心してから1時間後、ぼくは出町座の座席に座っていた。

どうでもいいことだが、出町座は前の座席に人が座っているとその人の頭がフレームインしてしまう設計である。座席を選ぶ際は前に人がいない(かつ後から人が来ない)席を取るべき。それが字幕映画だったときは最悪だ。字幕のあるべき場所に人間の後頭部しか見えず困る。

 

映画が始まって、やはり違和感は拭えなかった。キャラクターたちの性格がかなり『神話体系』と異なっているように感じられる。それもそのはずで、展開やセリフの面ではかなり『サマタイ』に依拠しているからだ。樋口師匠が悪ノリした大学生のように裸踊りを強制する展開は、森美的ホモソーシャル要素という感じもあってある意味親和性があるけれど、アニメで醸成された超人的樋口像とは相容れないところがある。

それぞれのキャラクターが、それぞれ微妙に異なっている。私も、小津も、明石さんも、樋口師匠も、羽貫さんも、城ヶ崎も。

だが、その違いに寧ろ好感を持てた例もある。明石さんは、『神話体系』では言葉少なで近寄りがたく、仏頂面で冷静に相手をあしらうかと思えば、もちぐまんのことになるとふと相好を崩す瞬間があって…というイメージだった。けれど今回は割りとおしゃべりだし、宇宙の因果律が破壊されないようあくせく立ち回る姿はとても人間的で、これは違和感とも言えるけれど、むしろギャップ萌え的な解釈が可能な「違和感」だった。ぼくの明石さん解釈では相手が年下だからといってタメ口で話すようなキャラクターではないけれど、田村とタメ口で会話する明石さんは新鮮で、あ、イイな…と。

もう一つ、この作品の良かった点であり悪かった点だけど、「成就した恋愛ほど語るに値しないものはない」とか言っておきながら、本作めちゃくちゃ明石さんが脈アリ演出すぎて、ほとんど成就を物語っちゃってんだよな、という。『神話体系』はもっとうすーく脈がある感じで、淡いんだけれど、今回はかなりはっきり明石さんの感情の動きを描いている。本作の明石さんの語り過ぎな感じ、正直ぼくは楽しく観ていた。良い二次創作を観ている気分。

そう、これは表裏一体で、本作は「直接的に描く」という嫌いがあった。明石さんにしても私にしても、感情表現がアニメ的記号に寄っていて、チープな感じ。チープな事自体は別にわるくないんだけれど、『四畳半』ってそういう感じだったか?という違和感はある。森見登美彦的な、青年らしい精神の未熟さを含んだ内容を、持って回った格調高い文章で表現するあの感じ。あとは、ドラッギーな湯浅アニメーション。その成分がもっとあってもよかったはずなんだけど、全体的にキャラクターたちのセリフや感情表現がチープで凡俗なものになっていた。それが「コレじゃない」感につながっていたんじゃないかと思う。前にFate/Zeroでの虚淵ギルガメッシュを観た後に奈須ギルガメッシュを観て、虚淵と奈須の語彙力の格差を感じたあの時みたいなギャップ。

 

また、『サマタイ』からの変更点の一つに、田村は偽名という設定になっていたことがある。そりゃそうか。サマタイと違って主人公の名前が明かされていないので、サマタイのラストのやり取りが不可能だもんな。自分の名字を「田村」に合わせに行く、つまり「決定論的運命論的な世界に自分が合わせに行く」という、作品のテーマを端的に表した面白いオチは、今回踏襲されなかった。あのオチ面白かったよな、と改めて認識した。

 

まとめると、これじゃない感はありつつも、二次創作として受け止めれば、新鮮な明石さんも観られて、悪くない作品だったと思います。

出町座の前に停めてたチャリに置きっぱにした傘が盗まれてたこと以外は、いい日でしたね、今日は。

 

銀座湯

銀座湯。近衛中学校の南側の路地を一本南に入ると、明かりが見える。東側に開かれた門の周囲を見ると、駐輪してある自転車の数でおおよその混み具合がこの位置からでもわかる。今日は空いているようだ。

一方で、明らかに自転車が多い日もある。それは大抵、近所にもう一つある銭湯・平安湯が定休日としている木曜日だ。普段平安湯と分け合っている(というよりも平安湯の人気が根強いから分け合うというより平安湯に分けてもらっている感は否めない)客たちが、木曜日になるとすべて銀座湯に集まるのだから、そりゃ一大事だ。

混み合った銭湯のストレスは、ぼくの住んでいる寮のシャワールームが突然冷水に切り替わるストレスとどっこいどっこいで、かなりしんどいから、ぼくは木曜日は意識的に避けて銀座湯に行くのだ。

 

番頭は大抵、お母さんかその息子(若旦那)の二人だ。たまに昼に行くと若旦那の奥さんが現れる。今日はお母さんだ。いつもの物腰の柔らかさ。

 

銀座湯の攻略法。

まず最も風呂場に近いロッカーを陣取る。といっても、最も風呂場に近いロッカーの列は軒並み鍵が失われており、欠番状態なので、厳密にはその一個となりの列が風呂場に最も近い鍵付きロッカーとなる。

ここで脱衣し風呂道具一式とともに風呂場に足を踏み入れる。

まず体を洗う作業だけれど、ここで左手側の、女湯との間の壁に沿って配置されたシャワーはいずれも上から冷たい結露が降ってくるゾーンとなっており、よっぽど鈍感な人間でないかぎり、避けたほうが無難だ。ぼくは右手側のシャワーの前に陣を張る。しかし、その奥側、つまり右奥のシャワー器前は水風呂の前であり、ここでざっぷんざっぷん冷水を跳ね飛ばしうめき声を上げながら入水するオッサンがいようものならここもまた地獄となる。避けたほうが無難。

 

右手前側のシャワーで一通り体を洗ったら、適当に風呂に使ってさっさと上がってしまう。

京都の銭湯はどうも湯の温度が高く、長風呂に適さない。

 

体が冷えないうちに、体を拭いて髪を乾かし、銭湯をあとにする。

 

 

『すずめの戸締まり』を観てきた感想

新海誠の新作『すずめの戸締まり』を友人と観てきました。以下、その感想。

 

■総評

いろいろ腑に落ちず、モヤ~とした映画。表現されているあれこれには丁寧さや親切さに欠けて、よくわからないままで映画が終わってしまった。

観終わった後、特典でもらった「新海誠本」を読んだ。この作品は三つの柱、「すずめの成長」「ラブストーリー」「戸締まりの物語」があるらしい。しかしどれも消化不良だと思う。この映画、表現したいことが多すぎたんじゃないだろうか。そして結果的に時間が足りなくなり、表現したいこと一つ一つの描写・説明も不足した。そんな印象。

劇中では非日常ばかりが描かれて、普段のすずめや草太の言動、友人関係など、日常的な場面が描かれないために、彼ら主人公級のキャラクターの人物像がうまく理解できないまま物語が進行してしまった感がある。

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■震災の描かれ方について

公式HPには、以下のような注意喚起文が掲載されている。

「本作には、地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーンがございます。」

しかし、この作品内には「大震災」が、僕たちの現実世界で起こった東日本大震災と同様(というかほぼそのまま。場所は東北で、すずめの日記の日付は3月11日からすずめ自身の手で黒く塗りつぶされている。)に存在しており、それが主人公の経験した災害として描写される。この意味で、もっと具体的な注意喚起文が必要だったと思う。フィクションの震災としてではなく、東日本大震災が登場してくることを、もっと明確に描くべきだと思う。「『東日本大震災が登場する』と書くと、観客が敬遠して興行が伸びないかもしれないかもしれないから、少しオブラートに包んでおこう」みたいな製作陣の都合優先のいやなやりとりがあったんじゃないかと邪推してしまう。

 

ともかく、この作品には「東日本大震災」へのほぼ直接的な言及がある(①)。そして、ほかにもフィクションとして「いまにも起こりそうな震災(そしてそれに脅かされる日常)」という、将来の災害についての言及もある(②)。新海さんとしては、どちらも描きたかったことなんだろう。けれど、どちらにしても出力結果はなんだか腑に落ちない。

①について。震災孤児であったすずめの描写は、東日本大震災への言及に意味を与えるものになりそうだけれど、実際のところは曖昧でとってつけた感がある。ラストにすずめが過去の自分に言い聞かせるようにして自己肯定をする場面があるが、そこにいたるまでの、「すずめが抱えている問題」みたいなものがはっきり描かれていないので、観ている側としては「何が解決したの?」という感じ。(実際数日経った今もよくわかってない)

加えて、養母の環(たまき)との関係について。これも、震災孤児が抱えうる問題として、作品に社会的な意味を与える題材だと思う。しかし環に「すずめを引き取ったせいで若い時間を失ったという後悔」を暴露させたのはあまりに急だったし、しかもその原因は、すずめが「戸締まり作業」に巻き込まれた結果、突発的に発生した不和が原因であるという、内容の重たさの割にやや必然性に欠ける暴露だった。そして、その重たい暴露のために二人の間に入った亀裂は、環の「すずめに対する感情は、それだけではない」という、やや消極的ともいえる一言でフワッと解決したことになってしまう。。。すずめ自身も言っていたように「好きで養子になったわけでもない」のに、災害という抗いようのない出来事によって、不本意にも養母に世話になってしまい、そしてその大切な時間を奪ってしまった、という罪悪感を掻き立てる暴露。これ、育てられる子供としてはあまりに重たい発言だとおもうのだけれど、そんな軽い感じで解決できることだろうか?すずめの(あるいは実際同じ状況に置かれた孤児)にとっては、かなりショックの大きい発言だろうし、本来もっと丁寧に問題と解決を描くべき題材じゃないだろうか…???

といったような点で、①の東日本大震災については描写不足だと思う。こんな状態で、「東日本大震災をテーマにしている!」という事だけをもって評価するなんて、できないと思う。

 

②について。劇場特典「新海誠本」には、災害を通して「日常」の価値を知る、というようなことが趣旨として書かれていたが、今作には、そのための十分な時間がなかったように感じる。物語の軸としてすずめと草太の旅があるために、訪れるそれぞれの地での人々の生活に対する描写が希薄になってしまって、結果として「日常」を感じられないまま震災がそれを脅かす、という展開になってしまっていた。「災害を通して日常の価値を知る」という意味では、『君の名は。』のほうが、三葉の生活やその友人、街の風景などが丁寧に描かれた分だけ、災害でそれらが脅かされ、そして一度は実際に失われたという事の重大さ、つまり「日常の価値の大きさ」が伝わってきたように感じられる。

 

■ラブストーリーについて

劇中で全然描き切れてなくて、ぶっちゃけ要らない要素だった気がする。

「草太さんのいない世界なんて…!」みたいなことをすずめが言い出した時は全く突然だったので戸惑いしかなかった。出会いのシーンの「きれい…」という一言も相俟って、すずめがただの面食いみたいになってるやん。

 

さて、これまでの新海作品から、新海誠の性癖の一つに「年の差(女性が年上)」があるのをひしひしと感じるんだけど、今作でも顕現してましたね。すずめと草太は、男性が年上なので、多分これではなく。

ハイそうです、環と芹沢ですね。

すずめ、ダイジン、環、そして芹沢の4名で東北までドライブを始めたあたりから、環が助手席に座っててアレ?とはなっていたんですよね。芹沢=”すずめをたぶらかすチャラ男”と思っている環が、二人の間に挟まろうと、あえて助手席に座ったというのも理解できる。そして脚本側の都合で、環に過去話をさせるために芹沢の隣に置いたんだとも思いつつも。しかし結果として微妙に環と芹沢の距離が縮まっていくんですよね。その後すずめと環の口論のあと、環が芹沢に泣きつく下りは、やや性癖を滑り込ませた感じがあります。(口論シーンで観客席が暗くなりすぎないようにバランスをとるための下り、というこれまた脚本上の都合というのもありそうですが。)

このあと、環の会社の部下で環に思いを寄せている風である岡部が、環と連絡を取り合うシーンで、環がチャラ男(芹沢)と一緒にいることを知ってやきもきしているシーンがありましたが、NTR展開的にも見えて、いろいろと妄想がはかどりそうな描写をちりばめるなァ~~という気持ち。

 

■戸締まりについて

これ、難しかったなぁ…。語りきられてない設定を匂わせる描写みたいなのもチラホラあって、考察するのが好きな人には、民俗学的な知識と絡めて楽しく観られる要素かもしれない。

常世」という、人間の社会生活がある表の世界に対する裏の世界みたいなものがある。そちらで蠢いている「ミミズ」が、「後ろ戸」を通して表に出てくると、表で災害が発生する。草太が受け継いでいる「閉じ師」という仕事は、日本全国を行脚する中で各地にあるこの後ろ戸を閉めてまわり、災害を未然に防ぐものだ、という、ざっくりとそういう設定。

本来ミミズは要石(かなめいし)によって封印されていて、後ろ戸を超えて出ては来ないはずなんだけど、すずめが要石をうっかり取り外してしまったために、後ろ戸が開けばミミズが出てきてしまう状況に。「ダイジン」(取り外された要石が猫に変化したもの?或いはもともと猫だったものが要石になっていた?)が、いらんこと後ろ戸を開けて回るので、すずめと草太はダイジンを追いながら戸締まりしていく、というストーリー。

まぁ、ここまでは全然理解できる内容なんだけど、これ以外にチラホラ出てくる要素が難しい。例えば「ダイジン」と「サダイジン」。ダイジンはなんで後ろ戸をあけて回っていたのか?本来要石として、ミミズをでてこさせないようにする役回りだったのに?サダイジンは草太のおじいさんと親しげに話しているカットがある。何物?そしてなぜ環にのりうつった?(上記の暴露をさせたのもサダイジンの仕業感がある)

 

戸締まり作業は、やや間延びした感がある。同じ作業も5回もしていると、単純に飽きちゃうよね。あと連続5回も地震警報のアラームを聞かされるのはしんどい。

特に途中の四国と神戸の戸締まり2回は、どちらかを省いて1回でもよかったんじゃないか?

 

■割とドライな展開について

草太自身が要石になりミミズを封印しなければならないという事が明らかになり、すずめが「多くの人の命と草太の将来とを天秤にかける」というトロッコ問題に悩まされるシーンがある。

悩んだ挙句、草太を封印に使うことを選択する。まぁ…、そうするしかないか…と僕は思ったが、そのあとすずめは、なんとか草太を救い出そうと、草太のおじいさんのもとへ行くことを決意する。その際に、しっかりと後ろ戸を戸締まりする。「え~!あけっぱにしとけば後でそこから常世に行けるかもしれないのに、戸締まりはするのか、冷静というか、ドライだな~」と思ったのは僕だけだろうか。

そのあと、なんやかんやで、常世に到達するすずめたち。やはり草太は要石としてそこにいる。草太をひっこぬいたあとは、自分自身が要石になる!という事を言っていたが、しかしついさきほど、ダイジンがいい感じ?のタイミングで弱って要石に戻っていたので、これを刺す。「え~!ダイジンと仲良くなった感じだったのに、封印に使っちゃうの!?しかも草太が要石になったところからして、ダイジンももとは人間としての生活があった可能性もあるよね…。ダイジンを封印に使っても別にすずめ的には問題ないのね、ダイジンはいいんかい。」と思ったのは僕だけだろうか。

妙にドライなところもあって、やっぱりすずめというキャラクターの人間性が見えにくくなった気がした。

 

 

■新海作品の美麗な画面について

今まで、『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『君の名は。』『天気の子』を観てきたけれど、それらの圧倒的に美しい画面を期待していたら、本作は言うほど印象に残らなかった。一緒に見に行った友人と話していたら新海さんの「都市を描く才能」という話になって、得心がいった。確かに、今作は舞台のほとんどが都市じゃない…!廃墟と田舎と、わずかに都市、という感じ。ぼくが単にぼーっとしていただけかもしれないが、画面映えという点でも印象が薄かったな…。ぼくの通っている大学の講義で、「新海作品をはじめ、近年流行の写真作品などは、自分たちが見慣れているものを別のフィルターを通して美しく映すことで評価につながっている」と言っている教員がいたけれど、そういうことなのかもしれない。もしかしたらもっと廃墟や田舎を見慣れている人たちからすると、今作はまた違った感想になるかも。